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出会い・感動インタビュー

もはや、宇宙は遠いところではない。民間による宇宙時代が始まっていることを、
多くの人たちに知ってもらいたい。-山崎 大地さん

今回のインタビューのお客さまは、民間宇宙ブランド「ASTRAX」(有限会社国際宇宙サービス)代表取締役の山崎大地さんです。大学卒業後、国際宇宙ステーションの運用管制官として従事し、当時、宇宙飛行士だった角野(現:山崎)直子さんと結婚。その後、自ら主夫になられて奥様の宇宙飛行を支えた話は、ご自身の著作などによりあまりにも有名です。現在は、無重力フライトはもとより、来たるべく民間による宇宙時代を見据えた多様な宇宙ビジネスを進行させています。一貫して宇宙とともに歩んできた山崎さんに、様々なお話をお聞きしました。

山崎 大地さん/「ASTRAX」(有限会社国際宇宙サービス)代表取締役

1972年、神奈川県鎌倉市生まれ。1997年、東海大学工学部航空宇宙学科卒。同年、三菱スペース・ソフトウエア株式会社入社。2004年、妻の山崎直子をサポートすべく仕事を辞職し専業主夫となる。2005年、有限会社国際宇宙サービス設立。2006年、NPO法人有人ロケット研究会、株式会社アストラックス、株式会社アストラックスミッションサービス設立。2010年、山崎直子宇宙飛行士を家族として支え、宇宙へと送り出す。2012年、無重力フライトビジネスをスタート。同年、ヴァージンギャラクティック社の宇宙船による宇宙飛行に申し込み完了。早ければ、2014年に宇宙飛行予定。

山崎 大地さん

 

―山崎さんはいつごろから宇宙に興味をもっていたのですか?

父親が理系だったので、幼いころからよく宇宙博覧会やプラネタリウムに連れて行ってくれました。それが宇宙に興味を持ったきっかけかも知れません。もちろん、宇宙を舞台にしたアニメ、「機動戦士ガンダム」や「宇宙戦艦ヤマト」も普通に大好きでした。
小学校の高学年のときに星のことを授業で教わり、なんて面白い世界なのだろうと思いました。そこで友達と一緒に、学校にはなかった「天文クラブ」まで作っ てしまいました。クラブの会報誌を作ったり、天体望遠鏡も自作し、週末には天体観測に出かけていく日々。小学校の卒業アルバムには、天文学者になりたいと 書いていたぐらい宇宙にのめりこんでいました。 中学1年の夏には、ボーイスカウトに入っていた関係でアメリカに2週間ほど行く機会がありました。ホームステイをしながらアメリカの生活を体験するという もので、観光でワシントンD.C.にあるスミソニアン航空宇宙博物館に見学に行くことができました。
そこにはライト兄弟の作った飛行機から、アポロ11号の宇宙船、スペーシャトルや様々な宇宙飛行映像など、アメリカのリアルな航空宇宙開発の歴史が凝縮さ れていました。日本とはまったく違う別世界です。アメリカの最先端の宇宙開発の姿を見て、まさにカルチャーショック状態。しかも、そうした開発に携わって いる人たちが皆、楽しそうにやっていることにも感動しました。「こういうところで働けたら楽しいだろうな」と思ったのをいまでも覚えています。

―宇宙が大好きな山崎少年は、当時どんなことを感じていたのですか?

そのとき初めて飛行機に乗ってアメリカに行ったわけですが、私自身はその飛行機という乗り物にも興味を持ちながら日本に帰ってきました。その約1週間後 に、日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月)が起こりました。その悲惨な事故から5ヵ月後には、今度はスペースシャトルチャレンジャー号の爆発事故 (1986年1月)が発生してしまいます。
それまでは当たり前のように、航空や宇宙のことに対してワクワクしていました。しかし、二つの事故を契機に、地の底に落ちたような気分になりました。とは 言え、私は同時にこうも思ったのです。飛行機も宇宙船も問題点を改善して、もっと安全な乗り物にしなくてはいけないと。もちろん、中学生ですので漠然とし た思いですが。
私は、もともとモノづくりが大好きな子供でした。父親もオモチャを買ってくれるというよりは、手作りのオモチャを与えてくれること が多かったので、そうした影響が大きいかも知れません。最初に作ったプラモデルはスペースシャトルで、「なるほど宇宙船の中は、こんな風になっているの か」と思うような少年でした。ですから、当時の二つの大事故を目の当たりにして、「なんとか自分の手で直したい。もっといい宇宙船を作りたい」という思い が人一倍強かったのです。

宇宙工学を学ぶ―高校生のときは、宇宙から離れた生活をおくっていたそうですが。

小、中学校と宇宙一辺倒で過ごしてきたわけですが、高校へ入ってからはガラリと生活が変わりました。バイクに乗ったり、バンドを組んだり、バイトをやったり…。いわゆる高校生の興味があることは、一通り体験しました。唯一、宇宙から離れていました。そして高校3年になり、進路を決めなくてはいけない時期が やってきました。
このまま卒業して就職しようかどうか悩んでいると、先生が「お前の好きなことをやればいいんだよ」と言ってくれました。あれこれ考えるまでもなく、自分に とって好きなことは宇宙以外にあるわけがありません。そこで就職先に「NASA」と書き込んだところ、先生から「高卒でNASAに行けるわけがないだ ろ!」と一喝されました。
一念発起して、卒業後から受験勉強をスタートしたのですが、もちろん勉強を開始したのが遅かったことは自分でも分かっていました。それでも最初の年は合格 ラインまで、3点足りずに惜しくも不合格。何でそんなことが分かったのかというと、当時は不合格者の試験の点数を高校に知らせてくれたからです。これなら あと1年やれば絶対受かるという自信もつき、翌年、無事に第一志望の東海大学工学部航空宇宙工学科に合格することができました。

―大学の航空宇宙工学科では、具体的にどのようなことを学ばれたのですか?

山崎 大地さん

私が大学で学んだ宇宙工学は、非常に幅の広い学問でした。電子工学、熱伝導工学、振動工学、空気力学など、宇宙船を作るのに必要なあらゆる分野の工学技術 を学びました。宇宙船が惑星間を移動する際の軌道を計算したり、宇宙船の中の環境をどうするべきかとか、宇宙に人が行くようになったときにどんな技術が求 められるのかなど、多様なことを勉強しました。宇宙船を作る、そしていつかは宇宙飛行士になる…そういう夢を抱いていました。
大学在学中に、「アポロ13」という映画を観る機会がありました。これは実際に起きたアポロ13号の事故をベースにした映画で、爆発事故を起こした宇宙船 は月には行けず、さらに地球に帰還することも難しいという危機的な状況を描いた作品です。制御不能になったり、通信回線が切れるなど様々な問題が生じ、そ れをみんなの知恵と技術を結集させて乗り越えていくという展開でした。
この映画を観て思い知ったのは、宇宙飛行士は地上の運用管制センターにいるすべての人たちのチームワークによって守られているのだということです。特に私自身は、ヒューストンの管制センターにいるフライト・ディレクターの仕事に魅了されました。
その後、筑波宇宙センターの中に国際宇宙ステーション運用棟と呼ばれる運用管制センターを建設するということで、見学の機会に恵まれました。宇宙ステー ションに実際に指令を出す場所で、ここでどうしても働きたいと強く思い始めました。調べてみると、いくつかの会社がチームで行っていることが分かり、その うちの一つ、三菱スペース・ソフトウエアに就職することができました。ここは宇宙船や宇宙ステーションの頭脳の部分=ソフトウエアを担当している会社です。

宇宙の仕事に就く。―国際宇宙ステーションの運用管制官としての仕事が始まるわけですね。

会社の面接時に「国際宇宙ステーションの仕事しかしません。管制官しかやりません。それ以外なら辞退します」と宣言したぐらいの生意気な若者でした (笑)。その強気が功を奏してか、希望していた部署に配属が決まりました。とは言え、これから宇宙ステーションを打ち上げるわけですから、経験者もおらず マニュアルも存在しません。すべて自分たちで作るしかないのです。
試行錯誤を繰り返しつつ、さらに膨大な仕事量を処理していかなくてはなりません。そのうえ予算は次第に縮小され、スタッフの人数も少なくなり、計画は先へ 先へと延びていく状況。そんな中で、まさに睡眠時間を削って仕事をこなしていたのですが、大好きな仕事に就けたという喜びと充実感もあり、私自身はまった く苦には感じませんでした。
いちばんの問題は、宇宙船や国際宇宙ステーションなどの実物が日本にないことです。そこでNASAの運用管理センターに行って、実物で訓練を受けなくては なりません。そして、日本とアメリカを往復する日々が始まりました。その頃、NASAが担当する基幹部分はすでに宇宙に打ち上げられていたので、日本での 打ち上げを想定して、オペレーション訓練の実体験が行えたのは本当に貴重なことだったと思っています。

―NASAで管制官の訓練を行っているときに、奥様と出会ったのですか?

そうです。でも、実際には日本で会ったことがあるのです。名刺交換をしただけの中でしたが。向こうでは日本人の数も少ないですし、時間が合えば一緒にご飯 を食べに行ったり、買い物に行ったり、遊びに行ったりしました。日本だと気を使って誘いにくいのですが、アメリカはそういうことに関しては、やはり自由な お国柄なので。
お互いに夢を語り合う中で、彼女は「ママさん宇宙飛行士になりたい」ということが分かりました。そこで私は「管制官になったら、管制センターから宇宙にい るあなたにプロポーズしますね」と伝えました。彼女も「それは、カッコイイですね」と。お互いに仕事がものすごく忙しかったので、それぐらい楽しいことを 考えていないと、気力が持たないというのはありました。
しかし、ここでひとつ問題がありました。彼女の夢は、子供を産んで宇宙に行くこと。私の夢は、宇宙にいる宇宙飛行士の彼女に管制センターからプロポーズす ること。ただ、これではいわゆるできちゃった婚になってしまい、やはり国を代表する立場として相応しくないだろうと。そこで先に「地上で」プロポーズし て、結婚して、子供を作って、彼女を宇宙に送り出すという順当な方針に転換したわけです。
そのかわり、結婚式は盛大にやろうと考えました。彼女が宇宙から還ってきたとき、着陸した滑走路の上に赤い絨毯を敷いて待っているので、シャトルからウエ ディングドレスを着て降りてきてほしい。そこで結婚式を挙げようと言ったら「それはいいね!」と答えてくれました。そんな感じで大変な仕事をやりながら、 お互いに会話自体を楽しんでいたのです。
今となってはもう過去の笑い話ですが(笑)、もしその頃のことにご興味がある方は「宇宙主夫日記」と「宇宙家族ヤマザキ」に詳しく書かれていますのでそちらをお読みください。

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