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出会い・感動インタビュー

世界を舞台に活躍してきた経験を、 その次の展開に活かすこと。-里岡 美津奈さん

今回の「出会い・感動・インタビュー」は、初めての試みとしてお客さまと、弊社代表取締役会長の兒玉圭司との対談形式でお届けします。対談のお相手は、ANAのスーパーCA(特別機担当乗務員)として24年間務められた里岡美津奈さんです。ともに世界を舞台に活躍されたご経験、本物を知る大切さ、接遇の意味、そして今後の展望などについて、話し合っていただきました。

里岡 美津奈さん/ジャパン・クエスト・ジャーニーズ(JQJ)取締役

1965年、愛知県出身。名古屋聖霊短期大学卒業後の1986年、全日本空輸(ANA)にキャビンアテンダント(CA)として入社。2010年、ANAを退職し独立。アメリカの旅行コンサルタント会社ジャパン・クエスト・ジャーニーズ(JQJ)の取締役に就任。また、医療機関などでの接遇指導や講演など、幅広い活動を続ける。現在、自動二輪中型免許を取得中、限定解除にも挑戦する予定というアクティブ派。

里岡 美津奈

 

世界のVIPの接遇にあたる―お二人とも、世界を舞台に活躍されている共通点をお持ちです。

里岡さんは国内外のVIPの接遇にあたるスーパーCAとしてご活躍されてきました。

里岡 私は24年間、CAとしてANAに勤務しておりました。そのうちの15年間を、海外の国家元首、日本では天皇・皇后両陛下、皇太子殿下、歴代総理の接遇を担当させていただきました。

―印象に残っている方を挙げるとしたら、どなたでしょうか?

里岡 英国のマーガレット・サッチャー前首相です。お目にかかったとき、彼女の美しさに驚きました。テレビ画面を通して拝見したときは、美しさよりも“鉄の女” と言われていた芯の強さや、ものごとに対する厳しさを感じました。しかし、実際にお会いしたときには、その美しさに圧倒されたのを覚えています。英国人で すので色白なのは当然なのですが、抜けるように白くて、頬はまるでバラのようでした。国内では、やはり天皇・皇后両陛下です。お二人は本当にお優しくて素 晴らしい方々です。私のCA時代を通しての忘れられない経験となっております。

兒玉圭司会長

兒玉社長も卓球選手として、さらに監督として世界中を飛び回ってこられました。

兒玉 私は1956年、大学3年生のときに、卓球の日本代表選手として世界選手権に出場しました。 その後1965年にユーゴスラビアのリュブリャナで開催された世界選手権大会のときに、初めてナショナルチームの監督を仰せつかりました。私と、元世界チャンピオンで後に国際卓球連盟の会長を務めた荻村伊智朗氏(故人)の二人が男女の監督に就任しました。私が29歳で、荻村氏は31歳。若手の指導者コンビが誕生したということでメディアにも取り上げられ、世界の卓球界からも注目されました。試合でもライバル中国と激戦を重ね、金メダル2個、銀メダル2 個、銅メダル1個という結果でした。それから10数年間、ナショナルチームの監督を務めながら世界中を周りました。

―世界卓球選手権東京大会では、兒玉社長が皇太子殿下のご説明役を務められました。

兒玉 今上天皇が皇太子殿下時代の1983年に東京大会が行われました。殿下と妃殿下が男女の決勝戦をご覧になるということになり、私がご説明役を仰せつかり、約3時間にわたり様々なお話をさせていただきました。お二人ともテニスをなさっておられたので、技術的な知識もしっかりとお持ちでした。さらに、米中ピンポン外交の裏話や、卓球界が果たす国際交流の役割 など話に花が咲きました。又、おもてなしの心など、むしろ私のほうが教わることが多く、本当に素晴らしいお人柄だと感じました。

里岡 皇后陛下は、細やかな心遣いとユーモアをお持ちです。「飛島(とびしま)」という小さな島が新潟県にあるのですが、皇后陛下とお話をしていて「飛島」か「鳥島」か、聞き取れなかったことがありました。私が「鳥島でございますか?」と申し上げたら、「ううん。ジャンプの飛島」っておっしゃられたのです。ジャンプという言葉を添えることで、確実に「飛島」だと分かります。私が再び聞き間違えないようにという、ご配慮に満ちた本当にお優しいお言葉でした。

本物から学び、本物を知る―里岡さんは、そもそもどのようなきっかけでCAのお仕事を選ばれたのでしょうか?

里岡 美津奈さん

里岡 子供の頃、パンナムのCAさんの働く姿を見て憧れを抱きました。でも、それは小さい頃の話です。短大卒業を控えて、両親が結婚のことを言ってくるのは分かっていました。それを避けるために、私は就職の道を選びました。しかし、自宅から通勤圏の会社では状況は一緒、家から出て就職する会社を探す必要があります。家を出ても両親が納得してくれる仕事を考え抜いた末、CAという仕事が浮かんだのです。ANAの入社試験を受け、念願のCAになることができました。

―兒玉社長が、現在の仕事を始められたきっかけをお話しください。

兒玉 兄と起業し会社が健全なうちに独立したいと考えたのが30年位前です。その頃は工業化社会から情報化社会への変遷期でしたので、私はコンピュータ関連の事業を始めたいと思っていました。そんなとき、卓球を通じたドイツ人の友人、Dr.ファウベル(当時在日ドイツ商工会議所副会頭)から、ドイツの編み込み式 増毛法の話を聞き、スヴェンソン・インターナショナルのメリンガー社長を紹介されました。当初は全くやる気はなかったのですが、あまりにも熱心に勧められたので半年かけて市場調査を行いました。結果驚きました。マーケットも大きいし潜在需要が非常に高く、大きな成長が見込める…と。すぐにドイツに飛び工場やメンテナンスの現場を見学し、長年愛用しているお客様ともインタビューしたりして、これは本物の技術(マイスター)であることを確信しました。日本で多くの方々に、この技術をお知らせしなければという使命感が沸き起こりその場で決心しました。

―里岡さんは、小さい頃から本物に触れられていたとお聞きしました。

里岡 美津奈さん

里岡 父親は私に、本物に触れることの大切さを教えてくれました。お茶をたしなむ風流な人でしたの で、家の中にお茶の道具がありました。道具箱は桐製なので、とても良い香りがします。幼心にも、その桐の香りに癒されました。そんな環境で育ったため、いまでも焼き物には大変興味があります。母親は言葉づかいに厳しい人でした。周りの友達とは三河弁や名古屋弁で話していましたが、家の中では方言を使うこと は母から一切禁止されていました。でも、そのおかげで東京に就職してから、一度も言葉で困ったことはありませんでした。

兒玉 本物にふれることは、とても大切です。卓球で世界中へ遠征に出かけた際にも、必ず現地の美術 館や博物館に選手を連れて行きました。本物に触れることで、人間的な成長になると考えたからです。それから私が事業を始めたときに、ウィッグづくりは技術 に定評のあるドイツのカーリン社に依頼しました。日本のお客さまは、本物の技術でないと納得しないからです。1989年、そのカーリン氏が「兒玉さん、私たち夫婦には子どもがいない。ぜひこの会社の跡を継いでほしい」と言ってきたのです。驚くと同時に、なぜ日本人の私なのかまったく理解できませんでした。それから2年半、カーリン氏と私は真摯に話し合い、1992年、カーリン社をスヴェンソン ジャパンのドイツ工場として直営化。カーリン氏の名声を残したいと思い、新会社の社名をカーリン・インターナショナル・ハールファブリック・ゲンペーハー と名づけました。彼とは、実の兄弟以上の絆で結ばれています。

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