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出会い・感動インタビュー

あらゆる物事に近道はない。 「文化」は、回り道をしてでもつくるもの。-高久 多美男さん

今回のインタビューのお客さまは、誇りある日本人のための志誌「Japanist」の編集長兼発行人であり、広告制作会社 株式会社コンパス・ポイント代表取締役、高久多美男さんです。 『一点の曇りもない、志高き雑誌がひとつくらいあってもいいじゃないか。』という骨太キャッチコピーの「Japanist」が、今なぜ、これだけ多くの人々から注目されるのか。創刊された理由やこの媒体の特徴及び志など、その背景にある高久さんの生き方や人生哲学などをお聞きしました。 ※インタビュー場所:高久さんたちが「ジャパニストの集い」を開催している「神楽サロン」(新宿区市谷田町)にて。

高久 多美男さん/株式会社コンパス・ポイント 代表取締役

1959年、栃木県生まれ。1987年、広告企画・制作を営むコンパス・ポイント・デザイン・スタジオを創業。1988年、株式会社コンパスポイントを設立。2002年2月、月刊誌「fooga」を創刊。2009年4月、「Japanist」を創刊。毎号、人間を深く掘り下げたクオリティの高いコンテンツを提供。著作に「なにゆえ仕事は、これほど楽しいのか」「多樂スパイラル」「魂の伝承 ---アラン・シャペルの弟子たち」(ともにフーガブックス)などがある。

高久 多美男さん

広告制作会社からのスタート―一貫してクオリティにこだわり、厳しい広告業界の中25年間、赤字は一度だけ。
どのような経緯で「Japanist」を出版されるに至ったのでしょうか。

私は若い頃に何度かの転職を繰り返した後、27歳のときに広告の企画・制作の仕事を始めました。1987年のことです。それまで仕事は生活の糧を得るために惰性でやっていましたが、180度変わってしまったのです。当時は広告に文化性が求められた時代、これほど自分に合っている仕事はないと感じました。とにかく仕事が好きになったので、どんどんそのスキルやノウハウが向上していきます。するとお客さまから感謝され、より一層仕事が好きになる。そんなプラス のスパイラル(好循環)の中で仕事をしていました。「今、流行っているもの」を提案するのではなく、常に「その企業らしい情報発信」を心がけました。全体が見える仕事を大切にしたかったことから、デザインだけの下請けはやらず、クライアントからの直請けを原則としました。仕事が嫌いだと上達しないという自分の体験から、社内も分業にせず、極力、仕事のアタ マから最後まで携われるようにしました。分業はたしかに効率的ですが、社員の一人ひとりがお客様との感謝の関係を築くことは難しいと想います。感謝の関係を築けなければ、仕事を好きになることもできないと思います。また、業界には接待の慣習がありましたが、どうしても肌に合わず一切接待は行わない方針を貫 きました。ある意味、自分がやりたいスタイルを通したのですが、バブル崩壊後に同業者が次々と倒産していく中、私の会社は業績を落とすことなく、むしろその後のほうが売上げ的にも伸びたほどでした。全力で走り続け、40歳を過ぎたあたりで、「このままこの仕事を、やり続けてよいのだろうか?」という疑問がふと浮かびました。同時に、小さい頃から本が大好きで、物書きになりたいという夢を思い出しました。

―経営されていた広告制作会社を最盛期にいったん閉め、新たな会社を立ち上げたのは、どのような理由があったのですか。

仕事では、広告のコピーや文章を書いていて、それはそれで好きな分野ではありましたが、私が本当にしたかったのは、自分なりの創作だったのです。どうしてもその夢にチャレンジしたいという思いが日々膨らんでいきました。一年間悩み考え抜いた末、2001年8月に会社を一度清算することにしました。つまり、会社の最盛期に自らの手ですべてをゼロに、翌日、株式会社コンパス・ポイントという新しい会社を設立したのです。
新会社では数人の幹部スタッフに株を分配し、成功報酬のオプションをたくさん設けました。一方で私の役割と給与を減らし、自由な時間をもらうことにしまし た。午前中は家で原稿を書き、午後から出社し夕方には退社、その後は再び原稿を書く時間にあてました。5年以内に作家デビューすることを目標にし、念願の 夢に向かってスタートを切ったのです。
ところが、その約半年後、ある方から地元で30年以上続いている「うつのみや」という地方誌の編集をやってほしいという依頼が舞い込んできました。その雑誌の編集を行っていた会社が経営難に陥ってしまったのです。私はそれまでにも編集の仕事をした経験があり、その大変さも分かっていました。何よりも、ようやく得た自分の時間が少なくなるのは不本意なので、すぐに断ろうと考えていました。

―地方誌を引き継ぎ、新たな雑誌「fooga」を発行されました。雑誌の編集に注力されたきっかけについてお聞きかせください

長年、企画・制作をなりわいとしてきた者の性でしょうか。断ろうと思っている一方で、「こんな雑誌をつくったら、面白いんじゃないか」と考えて始めている 自分がいるのです。気がついたら一週間くらいで全体の構想やコンテンツが固まりました。結局、2001年の12月上旬に依頼がきて、その月の20日頃には 引き受ける返事をしていました(笑)。とにかく、この雑誌には私が今やりたいことをすべて盛り込もう。それで儲からなくてもいい、他ではできないことを実現しようと。自分の創作意欲を満たす雑 誌をつくろうと決心したのです。こうして翌2002年1月、月刊「fooga」を新創刊、その後8年にわたり92号まで発行しました。当初は宇都宮を中心とした地域に限定していましたが、紹介や口コミで県外にも読者が増えていきました。おかげで「自分の時間を増やす」という夢は、また先送りになってしまい ました(笑)。当時も今も、私が興味あるのは人間です。人間には表と裏の部分、光と影があるからこそ面白い。人間は自分勝手な生き物ですが、一方ではとても崇高な面も持 ち合わせています。その後者の面を可能な限りフォーカスして掘り下げていく「fooga」の誌面づくりは、そんな私の人間観を根底に置きながら構築して いったものです。こうした主旨は、言うまでもなく現在の「Japanist」にも確実に受け継がれています。

―地域発信型の「fooga」から、誇りある日本人のための「Japanist」へ。

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中田宏さんとの出会いも含めて、その創刊理由を教えてください。2007年、「fooga」の取材で当時横浜市長だった中田宏さんにお話を聞く機会を得ました。私は政治家になるつもりはありませんが、政治そのものには大いに関心があります。その国の政治がしっかりと機能していなければ、経済も文化も生活も豊かになることはあり得ません。ところが、なんで日本の政治はこ んなにも酷いのだろうと、以前から忸怩(じくじ)たる思いを抱えており、そんなときに中田さんの著作と出会い、この人には他の政治家とは違うものがあると感じたのです。どんな問いにも、短い言葉でスパッと言い切る潔さ。「ぜひ、この人に会って取材をしてみたい」という思いが募りました。その後、実際に取材 をすることができ初対面でいきなり意気投合。中田さんを通じて、日本創新党党首で前杉並区長の山田宏さんとも出会うことができました。あるとき中田さんと話をしていて「みんな日本という国に生まれ育っているのに、日本のことあまりにも知らないよね」という話題になりました。そして自分も含め、日本人が日本の本質を知ることは急務だと気づかされました。では、そのための媒体をつくろう。それが「Japanist」の出発点でした。ジャパニスト株式会社を立ち上げ、中田氏をコーディネーターに立てました。お陰様で熱心な愛読者が増え、「Japanist」は創刊4年目を迎えるに至っていま す。

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